佐野城(さのじょう)は、和泉国日根郡佐野荘(大阪府泉佐野市)にあった日本の城。正確な所在地は不明で、一説には現在の旭町付近にあったという。

沿革

南北朝時代、楠木正儀の城として佐野城の名が現れる。正平6年(1351年)9月、楠木正儀が佐野城を築いて和泉国で北朝方と戦っており、佐野城の陣固めに淡輪助重が加わっている。

安土桃山時代になると、織田信長により佐野城が築かれた。通説では天正5年(1577年)の雑賀攻め後に築城されたとされるが、天正4年(1576年)に比定される織田信長朱印状の宛先に「佐野在城衆」とあることなどから、その時点で築かれていたことがわかる。信長の一族である織田信張も天正4年7月には佐野城に入城していたとみられ、和泉の国人や土豪たちが仕官を求め、佐野の国人の多賀氏に信張への取次を依頼している(「板原家文書」)。

雑賀攻め後の天正5年(1577年)3月、織田信張と根来寺杉坊(照算)が佐野城の定番とされ、雑賀衆ら紀州勢力への押さえの役を務めた。天正9年(1581年)2月の京都での馬揃えの際には、杉坊が佐野在城衆(「佐野一統者共」)を連れてくる手筈となっていた。

佐野城は、和泉守護代だった松浦氏旧臣の寺田生家・松浦家兄弟や沼間任世の在城する岸和田城・綾井城と共に織田政権による和泉支配を担ってきたが、天正9年(1581年)7月頃に織田信張が岸和田城に入城すると、以後、岸和田城が中央政権の拠点城郭に位置付けられることとなる。

この後、佐野村の「新城」に籠もる根来僧が鷺森本願寺への参詣者を妨害したり(『並河記録』)、天正10年(1582年)9月に本願寺が根来寺に参詣者の安全確保への協力を要請するも、佐野城の足軽衆が同心しないという旨が伝えられるなどしており(『天正日記』)、天正11年(1583年)7月に本願寺の顕如や教如らが鷺森から貝塚に移っている。この根来僧の佐野城は、天正13年(1585年)3月の豊臣秀吉による紀州攻めの際に、守兵が退散して落城したという。

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 平井上総 著「織田権力の和泉支配」、戦国史研究会 編『織田権力の領域支配』岩田書院、2011年、85–122頁。ISBN 978-4-87294-680-2。 
  • 山中吾朗 著「戦国期和泉の地域権力と岸和田城」、大澤研一; 仁木宏 編『岸和田古城から城下町へ―中世・近世の岸和田―』和泉書院〈上方文庫 34〉、2008年、37–64頁。ISBN 978-4-7576-0481-0。 

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